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137 days ago
とくに書きたいことがあるわけではないが、最近全然書いていないので、気の向くままに。 先月は、なぜか特に月の前半、体調が悪く、頭痛が続いた。最近もときどきある。今もそうだ。でも、昨年よりはかなりましだ。やりたいことはいろいろあり、私を心配してくれる人もいて、「ああすれば、こうすれば」といろいろアドバイス下さる。そうしたいのはやまやまだが、残念ながら体がついていかない。去年よりは労働環境がよくなったので、徐々に体調はよくなると思う。そのための努力もしている。 この間の週末は、飲み会が続いた。金曜の飲み会は、始めて一緒に飲むメンバーもいたし、出会って間もない人たちだったが、意気投合して、自由に遠慮なく話すことができて楽しかった。土曜も、長年の友人と久々に阿佐ヶ谷での再会を果たした。いつものバーで飲む。お酒が最近きつく感じるようになったが、つい飲みすぎた。モスコミュールを久々に飲んだ。特別仕様の、ほんとにしょうがの匂いがきついジンジャーエールを使ったモスコで、なかなかよかった。 最近まめにメールを書いている。頭の中に、「あの人にもこの人にも」と、メールや手紙を書きたい人がたくさんいる。旅行もしたい。映画もみたい。歌舞伎も行きたい。ああ。本も読みたい。何か活動して適度に疲れることは大切だ。じっと家にいてごろごろしても疲れはとれない。気の向くまま、が一番ストレスの発散になるらしい。
165 days ago
今週最終回を迎える日本テレビの水曜のドラマに、「アイシテルー海容」というのがある。テーマはいわゆる『源氏物語』でいうところの「心の闇」、つまり親子の情愛ゆえの深い心の闇を描いたもので、近年の少年犯罪が題材となった暗い物語だ。漫画が原作で、ノベライズされた本が今ベストセラーになっているらしい。 そのタイトルの「海容」という言葉は、この小説のテーマを1語でぴったり表しているなあ、とつくづく思う。それと同時に、こういう使い方もあったんだ、と素直に驚いた。「海容」は「寛容」とほぼ同義で、海のように広い心で相手を許す、という意味である。この言葉は普通、手紙文で用いられる。というか、手紙文でしか見たことがない。 この言葉は日本人で知らない人も多いかもしれない。私は、去年、勤め先のビジネスメールでこの言葉を使った。相手がこれみよがしにペダンチックな言い回しのメールを送ってくるので、相手のメールを理解できていますよ、というアピールのために、やむなく少し難しい言葉を入れた。下書きの文面を上司にチェックしてもらったら、「この言葉はなあに」と言われた…。 ネットで調べると、「手紙文でしか使わない言葉をタイトルにつけるなんておかしい」というような意見も出ているようだが、私はこれをきっかけに「海容」という言葉の可能性が広がるといいと思っている。昔は、いい和歌をきっかけに言葉に新たな生命が宿る、というようなことがよくあった。この漫画・ドラマをきっかけに、手紙文以外で「海容」という言葉が使われるようになれば面白い。心の広さが海にたとえられるところは、宗教的な香りも漂う。
173 days ago
最近気になる言葉。「希薄」。 この言葉には強烈な思い出がある。大学院の1年か2年のときだったと思う。私が院ゼミで発言したとき、あまり何も考えずこの言葉を「きうす」と発音していた。私の無知のなせるわざである。それを、一つ上の先輩から「きうす? 何それ」と冷たい言い方でたしなめられたのである。普段は柔和な先輩の発言だったので、私は一瞬何のことか分からなかったが、とっさに「きうす」という読み方のおかしさ(重箱読みになっている)に気づき、赤面して訂正した。 でも最近、この言葉を「きうす」と発言している人を何人かきいた。特に覚えているのは、日本語教育学会の3月のシンポジウムでパネラーの一人が何度も「きうす」と発言していて、誰も訂正しようとしなかった。日本語の専門家が集まるこの中で。不思議な気がした。 もう一度改めて辞書を調べたが、やはり「希薄=きはく」だった。ネットで「希薄 きうす」で検索すると、どうやらこの間違いを犯す人はかなり多いらしい。でも、誤読の例としてそれほど挙げられているわけではないように思う。どうしてみんな「きうす」と読みたくなるのか。 誤字や誤読は誰にでもあることだ。それに気づけることは幸せである。私は今でもあの時の先輩に感謝している。
198 days ago
この間の日曜、新宿のあるビルの一室に出かけた。社会人向け言語理論講座があり、その申し込みをするためだ。そこには、認知言語学の大家I先生、認知科学の分野の泰斗O先生、日本語文法理論の先端を行くO先生らがいた、いやいらっしゃった。 ふつう、それらの方々の講義を聴くためには、T大学やK大学などの一流大学に入らねばならないが、その講座では、お金を払いそれらの講師と面接して許可がもらえれば、そういった有名研究者の講義が聴ける。私は、前任校での知り合いで大学の講師をしていらっしゃるK先生にこの講座のことをうかがい、今回受講を決心した。 まさか、あこがれの先生方とマンツーマンでお話しできると思っていなかったので、このガイダンスにはびっくりした。まず文法のO先生。この先生は、実は学生時代にお世話になっている。私がとなりの学科(国文学)の学生だったからだ。どうも先生は私のことをお忘れのようだった。まあ、ふつうそうだろう。でも、私が「砥部」という愛媛の田舎の出身であることを、よく覚えていてくれたのだが。こちらから、以前お世話になったことを切り出すと、間髪いれず「覚えてるよ」と言った。でも、私の年齢もかなり間違っていて、彼の記憶にないのは明白だった。 I先生は、私を完全に誰かと間違っていて、「君は常連なんだから今日来なくてもよかったんだよ」といきなり言われた。私は心の中で苦笑しつつ涼しい顔で「今年から受講するのでよろしくお願いします」と述べた。 大学に入る時、こんなふうに先生を選んで入れたらどんなに楽しいことだろう。もちろん、大学生というのは無知な生き物なので、何も知らず入って新しい学問との出会いに胸ときめかすのも一興だろう。でも、ある程度勉強してから、本当に学びたいと思った人のもとで勉強するのは、一途に恋した人のそばに居られることに似て、これまた違う胸のときめきがある。
201 days ago
久々にお茶のお稽古に行った。稽古に行く回数は、以前に比べると安定してきた。今年は丸一日行く日が多い。おかげでいろんな人と知り合いになり、少しずつなじんできた。 しかし…休む日も相変わらずあるので、なかなか稽古の中身が進歩しない。家元や師範代の先生の言うとおりに動き、ハントウを勤めても何とかうまくこなすが、自分では動けない。いろいろありすぎて覚えられないのだ(イイワケ)。また、人間の動きというのは、この年になると意外と癖がついているようで、ちょっとしたこともよく注意される。たとえば、お客が飲んだお茶を下げにいくとき、私はついついどこかのお番頭のように手を前に出して両手を重ねる。これは、卑屈に見えてしまうらしく、やらないように、とのことだった。また、私は変なところが左利きになっていて、お茶碗などを、つい左手で扱ってしまう。 今日はいろいろやらかしてしまった。まず生け花への霧吹き。霧吹きがうまく出ず、水がこぼれてしまい、ポケットにあった適当な紙で拭いてしまった。よくわからないが、これは作法に反する。そのままごまかし、ふくさというものを腰につけたのだが、家元から直々に、「これは裏表が逆です」と注意された。また、私の立つときの足の動きがあわただしいと注意された。正座から立ち上がる時、まず足を「両方」爪立ててからゆっくり立ち上がるのが作法らしい。私は、片足が爪立ったらそのまま力を入れて一気に立ってしまう動作を繰り返してしまった。ああ~反省。 後で代稽古の先生から、割り稽古を受けた。割り稽古とは、亭主としてお茶をもてなす一連の動作を、部分的に練習することである。私は稽古をさぼっていた上に、来た日もすぐ帰ってしまうので、割り稽古をやってもらったことがほとんどなかった。 稽古が終わり家に帰ると、足や腹筋が痛かった。お茶とは、こんなに体力を使うものだったのか。身辺が落ち着いてきたので、体力づくり集中力づくりをしなきゃ。



