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2 days ago
ヒルという生き物がいる。ずいぶんと嫌われている。音を立てずに忍び寄るからだ。血を吸うからだ。そしてなかなか離れないからだ。しかし、何より見た目だ。 音を立てないのは仕方ない。音を立てたら獲物が逃げてしまうからだ。もしギチギチと凶悪な鳴き声をあげながら襲ってこようものなら、絶滅させる勢いで人間がヒル狩りに立ち上がるに違いない。ヒルが自己防衛のためにおとなしく黙っているのだと考えるのがヒルに対する相当の対応だと思う。 血を吸うのも仕方ない。人間はどうか。血を飲むだけにとどめて相手を生かしておくなどという慈悲など持ち合わせていないではないか。殺さないのは乳を搾取するウシやヤギぐらいだろう。さまざまな生き物の皮を剥ぎ、肉を切り裂き、骨を断ち、内臓を切り刻むではないか。塩をすり込み火で焼くに至っては悪魔の所業にも劣らない。そうした生き物が血だけ吸って生きているヒルのことをとやかく言うのはおかしいではないか。 なかなか離れないのも仕方ない。いつ食事ができるかわからないのだ。簡単に退散する余裕などないのだ。文字どおり命がかかっている必死の生き様が人間の目にどのように映ろうと、ヒルはお感じないかもしれないが、この必死の生き様を非難する資格を誰が持っているというのか。 見た目も仕方ない。人間に好まれようと生まれたわけではない。必要に応じて設計変更を余儀なくされ、姿が変化してきた末路だ。いや、時の流れの傑作だ。生き物はすべてそうだ。人間はこうした自然の営みまでをも否定しようというのだろうか。ハンサムなヒルや不細工なヒルというのもおかしいが、そうしたレベルではなく、ヒルであるという存在のレベルで否定されるのでは、この世に生を受けた者、親を受け継いだ生き物としては身も蓋もないではないか。 もちろん、山でヒルに出会ったら踏みつぶし、血を吸っていたらライターで炙る。それは自然な対決行為だ。しかし、それはそれとして、生きている者同士、その意味で戦友だ。ヒルの方に心がなければ、対決しながらも人間の方で思いやりの心をもつべきだと思うのだ。思いやりで語弊があるなら、尊敬だ。同じ星で同じ時代を生きる者同士が、励まし合ったり尊敬し合ったりするということは、そんなにおかしいことではないだろう。 ...
3 days ago
腹が減るから食い物をあさる。食い物をあさるのは時間の不経済だから、あさらなくてもよいように保存を試みる。食い物を保存しておくと味が落ちるから、味付けを試みる。味付けをすると食べ物の差別化が生じるから、交換をして好みを満足させることを試みる。好みが満足させられると偏食が起こるから、さらによりよい食べ方を試みたり、よりよい食べ物をさがしてあさったりする。 寂しいから相手をさがす。相手をさがすのは時間の不経済だから、さがさなくてもよいようにコミュニケーションをとって関係を広げてつながりをつけておく。関係に進展がないまま時が経つと魅力が薄らいでくるから、適度にお金や物や言葉や真心を投げかける。投げかけるとさまざまな反応が返ってくるから、よりよき反応をした相手を選んで一歩踏み込んだ関係を築き上げる。その相手との人間関係にのめり込むと世界が狭くなるから、さらによりよい付き合い方を工夫したり、よりよい相手を探したりする。 不都合があるから都合のよい理解の仕方を考える。その都度一つ一つ考えるのは時間の不経済だから、そうしなくてもよいように情報を記録として積み重ねておき、適当なときに検索できるようにしておく。情報を放置したままにしておくと死蔵することになるから、適度に検索をかけて情報をスタンバイさせる。スタンバイさせている間にさまざまな趣旨に基づいて情報を組み合わせたり、交換したりしながら、よりよい扱い方をし、都合のよい理解の仕方を試みる。その理解の仕方で新しい発想を得られるようになるとほかのものが見えなくなったり、合わないものを無視したりする不都合が生まれるから、さらによりよい理解の仕方を考えたり、よりよい情報を求めたりする。 こうしたワンパターンを愚直に守って歩んできた者にもいつか必ずスランプは訪れる。しかし、どのようなスランプであっても、最後には世代交代という自然の摂理によって強制的に解消されていく。しかし、個人においては解消される問題であっても、ヒトの社会においてはそうはならない。ことばを得て記録手段をもったヒトの社会は長い年月生きている生命体に似ているからだ。 ...
3 days ago
「夜の記憶」 三日月の夜は 人歩く 後ろ姿は群青の ふたりひとりと 月の夜 風吹く夜は 家の中 明かり火鉢に よりそいて 両手ならべて かざす影 雨降る夜は 窓の外 道行く人は 急ぎ足 かすかに残る 息づかい 最後の夜は 胸の内 慣れ親しんだ 天井の ひとつひとつの 節模様 ★ホームページに戻る
3 days ago
骨密度測定装置が来たので測ってみた。数値が悪い。今日から牛乳を飲もう。小魚もしっかり食べよう。瞬時に決意して実行しはじめたということは、数字にはそれだけの力があるということだ。 数字というものは恐ろしいもので、言葉よりも力をもっている。しかし、数字だけでははたらかない。言葉の効果をより強力にするという意味で力をもっていると考えた方がよい。 言葉には言葉自体の魔力と活字の魔力があるが、数字には加えて明確さというものがある。この明確さによる説得力と取り扱いのよさが武器だ。 しかし、その数字が算出されるに至った過程と計算の過程を、数字そのものが覆い隠してしまうことがある。数字がいつの間にか言葉を駆逐してしまうのだ。これによって数字の不当な魔力が成立する環境が整う。危うき数字の一人歩き、不可解な取り扱い、そうしたことが容易に行われてしまうのだ。 言葉と数字のバランスを崩さぬようにしないと、どうしようもなく気持ちの悪い世界が出現することになりそうだ。既に僕は骨密度の測定値にずいぶんと踊らされている。いろいろな数値の組み合わせで人をどうにでもコントロールできそうな感じもする。もっとも、数字自体が別段悪いわけではない。濡れ衣だけは着せないようにしよう。 特に基準となる数値は怪しい。それが基準であるという証拠が乏しかったり、逆にもっともらしかったりすると、もう危険だ。ほんの少し基準値を変えるだけで世の中のお金の流れが大きく変わってしまうからだ。この基準値という数字の裏にあるものを見抜く目が育ってしまうのは、基準値を定める側としては非常に困ることになる。これが育たないようにするもっともらしい理屈や仕組みを探していくと、いろいろと面白いものが出てくるに違いない。 例えば、有識者会議というものにつきあたったら、いの一番に注目し、その会議がお飾りになっていないか、構成員に偏りはないか、誰が選出し、誰が辞退したかを調べるべきだろう。しかし、その時間と労力は誰も与えてくれないのだ。暗闇の中を他人の目で誘導されていることに恐怖を感じなくてもすむのは、恐らく僕たちのほとんどが同じ境遇に置かれているせいだろう。目の前にマンホールが口を開けていても、見えていても認識できない状態であることは間違いないと思うのだ。これほど恐ろしいことがあろうか。 ★ホームページに戻る
4 days ago
広辞苑第四版227ページ「鷽替」の説明。これは大阪に対する偏見によるものであろうか。それとも単なる記述漏れであろうか。 「太宰府・大阪・東京亀戸(かめいど)などの天満宮で、参詣人が木製の鷽を互いに交換し、神主から別のを受ける神事。」に続く説明だが、第三文目に「太宰府は正月七日夜の酉(とり)の刻に行う。」とあり、第四文目の「亀戸は正月二五日。」で終わってしまう。 つまり、大阪の日程が省略されているのだ。これはどうしたことだろう。省略する正当な理由は見あたらない。これでは、広辞苑は大阪を軽く扱っているのではないかと勘ぐる人がでないとも限らない。広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうか。もし、改善されていなければ、大阪に対する広辞苑編集者の態度は決定的なものだと思われても仕方ないだろう。 辞書は一出版社が発行するものだが、その内容の性質上、公のものだ。公のものは平等さを欠いてはならない。広辞苑がますます最高峰のものとなるためには、このことを忘れてはなるまい。 さて、鷽替の心とは何だろう。鷽をとりかえる。嘘を誠に取り替える。自分のついてきた嘘を誠に替えよう。自分の希望が実現しますように。こうした現世利益の思想による願いだろうが、天神として恐れられた時期の菅原道真を抜きにしてはいけないだろう。菅原道真を陥れた嘘を誠に取り替え、身の潔白を証明したいという怨念のようなものは、いつの時代にもあり、次第に凝り固まって増殖し続けているのかもしれないのだ。 まことに嘘の多い世の中だ。この星の人口が増えれば増えるほど、嘘は多くなるのは確かなことだ。政治的に抹殺され、寿命をも縮めることになった道真公の怒りがまたもや今の異常気象や伝染病を引き起こしていると感じている人々がいてもおかしくはない。そのような伝説的な解釈をして、この世を正そうとする動きが生まれるのならば、因果関係は認められないものの、それは大事な人間的な反応だ。 この重要性を否定すれば、人々はますます不幸を呼び込んでしまうことになるだろう。その結果、強い人は苦虫を潰したような顔をして不満や皮肉を言うばかりの人となり、弱い人は正しくない世間の中で心を疲弊させてしまう。 ...



