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-+忙しくなってきたけど
8 days ago
学期末というか、学年末が近づいてきたので、当然のことながら採点やら成績表で忙しい。 でも、こういうときこそ心にゆとりをもっていきたいものだ。
-+学校でディスコ?!
10 days ago
娘の学校で開かれたスクール・ディスコに行ってきた。 オーストラリアの学校では生徒たちのためにディスコを開くことが珍しくない。 いまだに日本の学校のイメージから、こうしたスクール・ディスコにはなじめないのだが、日々の出来事は天の意思である。そこで、ディスコについて考えてみることにした。 冷静に子どもたちや親たちを観察すると、ノリノリで楽しんでいるグループと、会場の外に出て冷ややかに距離を置くグループがいた。まあ、選択肢としてディスコに出ないというのもありなので、ここに来ている人たちはおおむねディスコには理解をしめしており、その参加のあり方には温度差があるというべきだろう。まあ、入場費が3.5ドルでそれfが学校に寄付されることになるので、学校に経済的に協力しようという親もいたのかもしれない。 つまり、同じ出来事であってもそれをどう解釈するか、それとどう関わるかというのは個人次第だということだ。 中国の古典『菜根譚』(さいこんたん)には、心のあり方によっては、杯にうつるひもも蛇に見えてしまうというようなくだりがある。ディスコを何か邪悪なもの、学校文化には相容れないものとみて、距離をおくこともできるし、子どもたちが喜ぶからいいんじゃないかと観ることもできるわけである。 『菜根譚』の中には、心のありようで、同じ世界も違ったふうに体験できるというような内容が随所に見られる。たとえば、こころが安定している人は一日も1000年のように生きることもできるし、心が大らかな人は狭い部屋でも宇宙を感じることができるというくだりがある。さらには、普通の人は全ての出来事を違ったものととらえるが、心の達人は万物の中に同じものを見るという。 そこで、私なりにこのディスコに万物に共通なものを見出そうとしてみた。 ディスコで踊っている子どもも、親も詳しくみていけば、細胞、分子、原子、素粒子であり、行き着くところはエネルギーであり、一定の周波数で振動している。会場で流れている音楽も振動している。多くの子どもたちは、その自らの振動をディスコ音楽の振動にあわせているわけだ。つまり、私たちは日常生活とは「ちょっと」違う振動の中にいたことになる。 ...
-+Why disco?
11 days ago
I am with my daughter at school disco tonight. In my mind, disco and school still don't coexist together as I believe each of them has different vibration, hence different viblation. That is silence at school and noise at disco. Also I used to be a teacher in tokyo for 5 years and therefore i might feel that way..... But it might be the time for me to embrace both silence and noise. Both of them are part of Source. That is our life. Love and gratitude. Tsune
-+恋しい
12 days ago
いやあ、本格的に暑くなってきた。 家で入るときはランニングシャツでいることが多くなってきた。 職場に持っていく水は前日から凍らせておくようにしている。 部屋にいるときは扇風機をよく使うようになってきた。 仕事から帰ってくると、まずはシャワーをあびるようになってきた。 などなど、夏の生活スタイルになってきた。 一年の大半がこのスタイルのオーストラリアのクイーンズランド州。 普通の生活スタイルにもどったということか。 でも、四季の移り変わりに勝る美しさ、楽しさはここオーストラリアにはない分、いくら「新型インフルエンザ」が猛威を振るっている日本でも年末年始くらいは帰りたいという気持ちはある。
-+我を忘れるということ:『論語』をかじる
12 days ago
最近、少しだけ『論語』をかじりはじめたが、これがなかなか面白い。かなり前から読みたい、読まなければと思っていたのだが、「難しい」という評判、忙しさをいいわけに読んでこなかった。そして、今回少しではあるが、『論語』を学ぶ機会に恵まれた。 私の学び始めた中で印象に残っているのは、「我」のことばかり考えていては君子になれない、「我」を忘れたところに天の道があるというくだりである。 私なりにいえば、この場合の「我」とは自我(エゴ)のことであり、自己中心に物事を考え、すべての他者を識別・差別し、感情、思考、物事などを自己とみなすあり方であろう。一方、我を忘れた状態、すなわち天の道を生きることとは、自己というちっぽけな存在を超えた大いなる存在の意思にそった生き方であるといえるだろう。私たち人間は地の上で生きているため、様々な「雑音」に邪魔されて、天の意志に気づかないことが往々にしてあるが、孔子は地に生きながらも天の声を代弁していたといえるのかもしれない。 私などの「小人」はまだまだ君子には程遠い存在である。日常のちょっとしたことで落ち込み、腹を立てる。そんな私にもこの孔子の考え方、我を忘れるは非常に大きなインパクトをもった。 たとえば、何か腹立たしさを覚えはじめてきたら、目の前の出来事や人物と我の間にスペースを見出すようにし、そのスペースに焦点を当て、我を忘れるようにする。そうすると、腹立たしさはどこかにいってしまう。そもそも人間の身体を構成する細胞は無数の原子や素粒子からできており、その99.999パーセントは空間であるとされる。そもそも我という存在は限りなく空間(スペース)に近いのである。そう考えると、我がなくなり、楽になる。 また、何かやりたくない雑務があったときも、我を忘れて、とにかくその雑務をやってみる。そうすると、これがはかどったりする。やたら、考えるから自我が目を覚まし、「これはおもしろい、それはつまらない」と識別してしまうのだ。とにかく考えないで行動することは、やりたくないが必要な実務をやるときに効果的な方法だ。 また、自分の好きなことをやっている最中は、それこそ我を忘れている状態であり、時間がたつのも忘れてしまう。書いているとき、読んでいるとき、学んでいるとき、アニメをつくっているとき、教えているときなどは自我がどこかへ飛んでしまう感じすらする。 ...
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